近代資本主義の精神の、いやそれのみではなく、近代文化の本質的構成要素の一つである職業理念の上に立った合理的生活態度は―この論文はこのことを証明しようとしたのだが―キリスト教的禁欲の精神から生まれ出たものである。


禁欲は現世を改造し、現世の内部で成果をあげようと試みたが、そのために現世の外物はかって歴史にその比を見ないほど強力となり、ついには逃れえない力を人間の上に揮うにいたった。


だが、この末人達にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、人間性のかって達したことのない段階にまで、すでに登りつめたと自惚れるであろうと。


マックス・ヴェーバーの代表作です。
この論文の主題はシンプルです。
何故、ヨーロッパで資本主義は生まれたのか?
エジプトでも、イランでも、中国でも、アメリカでも、ブラジルでもなく、そして日本でもなく、
何故、ヨーロッパでのみ資本主義は生まれたのか?


資本主義はどのように生まれたのか?
普通に考えて、人間の欲望(物質的・精神的)から生まれたのではないかと考える。
美味しいもの食べたい、ブランド品着たい、豪邸に住みたい
チヤホヤされたい、モテたい、ウホッ!いい男・・・やりてぇなあ〜!
という人間の欲望から、資本主義は生まれたのでないかと考える。
マックス・ヴェーバーは、そうではないと言います。


彼は、キリスト教的禁欲の精神から、意図せざる結果として資本主義は生まれたと語ります。
彼は、プロティスタンティズムの中のカルヴィニズムに注目する。
カルヴァンの予定説では、神によって救済される人間は決められている。
この世の善行や悔い改めは、一切関係ないのである。
百万人の人間を救おうが、百万人の人間を殺そうが一切関係ない。
ほもであろうが、ゆりであろうが、一切関係ない。
のんけは関係ある。のんけは滅びろ!(暴論)のんけは滅ぼす!(迫真)
そして、自らは救済されるのか、自らは救済されないのかを、あらかじめ知ることはできない。


自らは救済されるんだろうか?もしかしたら救済されないかもしれない!と考えて不安になる。
救済される人間とは、一体どのような人間なのだろうか?
救済される人間は、一体何を行うだろうか?
救済される人間は、神の御心に適うことを行うはずだ。


Aであるならば、Bする。
(ほもであるならば、アイスティーを飲む)
ここで目的と結果が反転する。
Bするから、Aである。
(アイスティーを飲むから、ほもである)
この世で神の御心に適うことを行うことによって、自らは救済されているという確信を持つことができる。


そして、利益の肯定、利益の追求の正当化がなされる。
今までは、金儲け(ほも)は悪であり低俗なもの考えられていた。
それが、金儲け(ほも)は善であり崇高なものと考えられるようになる。
その為に生活が合理化され、時間を気にしながら日々を暮らすようになる。


終わりに、“鉄の檻”という言葉を使う。
心が資本主義という制度を作り上げた。
だが、今度は資本主義という制度に、心が支配されることになった。
そして、この“鉄の檻”からは、誰一人として逃れることはできない。


この資本主義は、世界の全てを化石とするまで終わらない。
この果てには何があるのか、私にはわからない。